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バビロニアの興亡と文明の遺産
バビロニアは、古代メソポタミア南部に位置し、バビロンを中心とした地域で、バビロン第一王朝から始まり、カッシートの王国や新バビロニア王国など多くの王朝が興亡しました。この地域は、ティグリス・ユーフラテス川流域のオリエント世界の一部であり、北部はアッカド、南部はシュメールと呼ばれ、それぞれアッカド人とシュメール人が居住していました。紀元前3000年頃、シュメール人は青銅器文化を持ち、メソポタミア各地に都市国家を築きました。これらの都市国家は、アッカドによって統一され、その後シュメール人のウル第3王朝によって支配されました。
バビロニア王国は、西から侵入したアムル人によって紀元前1900年頃にバビロンが建設され、バビロン第1王朝が開かれました。特に紀元前18世紀のハンムラビ王の時代には、メソポタミア全域が初めて統一され、ハンムラビ法典が制定されました。
しかし、ハンムラビ王の死後、民族移動の時期が始まり、バビロニアは西アジア全体の民族移動の波にさらされ、ヒッタイトの侵攻を受けました。ヒッタイトは鉄器をオリエントにもたらし、青銅器の時代を終わらせました。
カッシートの支配では、紀元前1595年にヒッタイト軍がバビロン第1王朝を滅ぼしましたが、その後カッシートがバビロニアを約350年間支配しました。カッシートはバビロニアの文化や宗教を尊重し、継承しましたが、紀元前1155年頃にエラム人によって滅ぼされました。
アッシリア帝国は、オリエントを初めて統一した帝国で、紀元前9世紀頃にメソポタミアを征服し、紀元前7世紀にはバビロニアも支配下に入れました。アッシュール=バニパル王の時代には、首都ニネヴェが建設され、全盛期を迎えました。
新バビロニア王国は、アッシリア帝国に対する反発から紀元前613年にカルデア人によって建国され、アッシリア帝国を滅ぼしました。ネブカドネザル2世の時代には、バビロン捕囚として知られるイェルサレムの占領とユダヤ人の拉致が行われました。
しかし、バビロンの衰退は避けられず、ネブカドネザル2世の死後、内紛によって弱体化し、紀元前538年にアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされました。その後、バビロンは政治の中心から離れ、砂に埋もれることとなりました。
ヘレニズム時代には、アレクサンドロス大王の死後、ギリシア系国家が分立し、バビロニアはセレウコス朝シリアの領土となりました。バビロニア一帯が再び世界史の重要な舞台となるのは、イスラーム時代にアッバース朝が新たな都バグダードを建設してからでした。
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